教育がニート予備軍生産=子どもの競争意識醸成を−中山文部科学相ってのを読んでの感想というか私の考えをつらつらと書いてみる。




 教育について書く前に、この記事を見ての私の最初の感想を書くとすると、こんな感じ。




 『教育だけでニートが生まれてる訳では無く、その他色々な要因が重なって起きるのではないか?』




 教育だけの問題なれば、他の人も皆そうなる筈であり、そうでない以上他にも要因があると考える方がよっぽどありえる話だ。家庭状況もあるだろうし、友人関係ももあるだろう、当然当人の性格が一番大きい問題だろうが。やる気の問題が最大限に来るという前提を持つとして、そこに教育が影響するという点もあるとは思うが、その教育の中でもしっかりと頑張っている人もいる訳で、一概に教育のせいだけとは言えないだろうと私は思う(要因の一つとしてあるとは思うけどね)。ましてや、



学校卒業後も就職しないフリーターやニートが増えていることについて「今の教育機関は、フリーターとかニートの予備軍を大量に生産していることに手を貸しているのではないか」との認識を示した。



ってのはねぇ……景気が悪くて会社が人を雇えないってのもあると思うんだが。それは景気対策をまともに打てない政治家のお前らにも責任があるんじゃないのか? 教育現場の問題だけで解決するもんじゃないし、競争が激化すればする程、更に就職できない人間ってのは増えると思うんだがね。短絡的な発言をして、自分の頭の悪さを露呈してどうするのかと思ってしまうよ。




 さて、今回この記事を見て書いてみようと思ったのは、子供の教育について色々最近思う事があるから。息子はまだ2歳足らずで、学校教育にはまだまだ猶予があるが、仕事関係で話をしている人の中にはPTA会長とかもいたりして、教育現場の話を聞くと不安になってくる。


 例えば、「国立大学以外は大学じゃない」「進学先は学校が決めるのであって生徒が決めるものじゃない」「お前はなんでこの学校に入ったんだ。お前が進学しないせいで俺の評価ポイントが落ちるんだぞ」等々……こんな言葉を父兄に向けてすら言い放つ教師がいる訳だ。そんな学校に入学したら、とても文頭の中山文部科学相の言葉のような、



社会は厳しいということを、子どものころから教えないといけない



なんて事は、嫌という程教えられると思うけどね。社会は厳しい、自分の意思なんて関係なく、その場(学校や会社や部門)の論理が最大限に支配しているという事を知るだろう。自分の考える正義など全く意味が無く、勝手に物事が他の人間によって決められるという事を知るだろう……はっきり言ってこれもニートを生む理由になるんじゃないかね、あほらしくなって無気力になりそうだよ(笑)。




 私はそれなりに進学校にいたから競争ってのは普通にあったけど、上記の例のような当人の意思を無視するような教育は受けていない。当人の自由を最大限に認めてくれる学校だったから、私は自分の思いをしっかり持ったまま生活できた。大学についても自分の思う大学を受けてそちらに進んだ(多分、その高校では前例が無かった筈)。それでは競争が全く無いのかというとそうではない。当然、中間・期末テストや模擬試験はあったし、そこには純然たる順位がついている。それを見てもっと上を目指す必要性を感じたりもしてた。




 偏差値至上主義の時代から少し移り変わる時期だったように思う。猫の目入試なんて言われていた時代だからね。それを疑問にも思わなかったし、誰もが同じ条件なのだから、後は自分の努力だけの問題というのもはっきりしていた。




 同じ条件と書いていて思い出したが、平等の概念について少し書いてみる。平等にしようとか差別がいけないという概念は正しいと思う。だが、それは「スタートの平等」であって「ゴールの平等」では無い筈だ。よくある運動会の徒競走でゴールを一緒にするとか全く無意味だと思う。スタートが平等であれば、後は当人の資質と努力が「ゴールの差」を生むのであり、それを無理矢理「ゴールの平等」にしてしまうのは、努力に対する侮辱だと私は思う。しっかり努力をした者が努力していない者と同じゴールに立つ事が平等の筈が無い。




 こういった面では「努力する事があほらしい」という事に繋がってニートが生まれる要因に……ってのは些か強引だなぁ(笑)。これだけでニートになるとしたら、やはりそれは当人の問題であり、家庭の問題でもあると思うんだけどね。当人の「やる気」を学校が損なっているという面は多分にあるだろうけど、その中で自分自身を高めようという意欲や気概は、当人や家庭の援助中で十分に育めるものだと思う。